
short story
大きな木
その林の奥。
少し木がばらついていて、空から光が屋根に零れ落ちてる。
緑に覆われた小っちゃな小屋。
見つけた時には、僕はその小屋を大好きになってたんだ。
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僕は大橋健太。10歳、小学校4年生。
父さんは落ち着きが無くって一つの仕事に留まっていられないし、だから一ヶ所に住み続けることだって出来やしない。おかげで僕も兄ちゃんも転校ばっかり……
あちこちに行けるのは楽しいけど、でもなかなか友だちも出来ない。中学2年の兄ちゃんは優しい性格で父さんに文句も言わない。だけど、この頃僕は逆らってばかりだ。その間に入って、兄ちゃんはいつも困った顔してる。
ほとんどいない父さんの代りに僕を育ててくれたのが兄ちゃん。4つ歳上ってだけで、兄ちゃんは僕に対する責任ってやつを小さい時からずっと持ってる。父さんより父さんらしい。
お母さんは僕が4つになる前に病気で死んだ。その時に兄ちゃんはお母さんに僕のことを頼むって言われたらしい。僕はお母さんのこと覚えちゃいないけど、父さんに頼まなかったのは正解だと思ってる。お母さんは今の状態を見越して兄ちゃんに頼んだんじゃないのかな。でも、そのせいで兄ちゃんには自由がなくなっちゃった……
そこは僕だってホントに悪いって思ってる。父さんはもっと思うべきだけどね。
なのに最近の僕は兄ちゃんが鬱陶しくなっている。遠足の弁当も作ってくれて、トイレットペーパーの残りを数えて買い足して、今日は米買えなかったから2合しか炊けないんだってパン食べて。そんな兄ちゃんが鬱陶しくて。だから、僕は僕が鬱陶しい。
その田舎に引っ越した時はちょうど夏休みに入ったばっかりで、友だち作るどころか学校に行くことさえ当分必要がなかった。本当に、ただの田舎。父さんがどうしてここに来たのか分からない。例によって言う言葉は一つ。
『いい仕事が見つかったんだ!!』
どうせすぐここを出て行くことになるくせに。
周りにはなんにもなくて、ただ道路と原っぱで、だから兄ちゃんが買い物に行ってる間にちらっと近くにある林に入ってみた。
やっぱり木しか無い。何も無い。秘密基地とか作ったらきっと面白いって思うんだけどここ3日くらい、兄ちゃんの様子がおかしい。買い物から帰ってくる途中で林から出てきた僕を見て、
「こんな所、一人で入るんじゃない」
なんて鬱陶しいこと言うくせに、それもどっか上の空なんだ。
いらっとしたけどさすがに心配になった僕は、やたら買い物に行く兄ちゃんの後をつけてみた。だってこんな兄ちゃん、見たこと無い。
商店街ってほどでもない、何軒かのお店が並んでる通り。クリーニング屋さん兼宅急便の2階は洋服屋。買って汚れたら1階でクリーニングしてねってことなのかな。
もっと先の方に魚屋がある。手前に八百屋と肉屋が並んでて、その2軒を見てパッと思いつくのがいつも出てくるカレーライス。そのカレー粉と、ついでに飲み物が買えるのが向かいのスーパー。
この小さい商店街はすごく便利に作られてる。
後ろも気にせずに兄ちゃんはスーパーに入っていった。少し遅れて僕も入る。普通の町でいうとコンビニが3軒くらい合体したような広さで、あちこち端っこには段ボール箱が積んである。いろんなものがあるけど、例えばポテチならのり塩はあるけどコンソメ味が無くって、でもわさび味は置いてあるっていう、ちょっとズレてるようなスーパーだ。
のり塩のポテチを持った兄ちゃんがまっすぐレジに行った。
レジは2つあって、左っ側が空いてるのに兄ちゃんはなぜかそこに行かない。その少し手前の醤油とかマヨネーズとかが並んでるワゴンの所でちらちらレジを見ながらぐずぐずしてる。どっちもまだ家にはあるから多分買おうとしてるんじゃない。
左っ側のレジにどっかのおじさんが行って、少ししたら右っ側が空いた。持ってたマヨネーズをストンとワゴンに落としてまっしぐらにそこに兄ちゃんは行った。
「いらっしゃ…あら、どうしたの? 買い忘れ?」
「はい、あの、弟がこれ欲しいって言ってたの忘れて……」
なんのこと? 僕はポテチはのり塩は嫌いだ。だったらおせんべの方がよっぽどいい。
「そう! これ、美味しいものね。私も好きよ。あ、この前もそう言ったっけ」
ピッとバーコードを読み取りながら笑ったのは、ちょっとぷくっとしたおばちゃん。袋に入れてる顔をじっと見てる兄ちゃん。
(まさかこのおばちゃんに恋とかしちゃってるんじゃ……)
ちょっとドキッとした。あちこち転々としてるから兄ちゃんは恋するヒマも無い。部活だって『入ったってしょうがないだろ?』って寂しそうに笑ったのを覚えてる。真っ直ぐ家に戻って来て、洗濯したり夕飯作ったり。悲しいけど……兄ちゃんには僕しかそばにいる人間はいないんだ……
なのに、その兄ちゃんが恋? だから僕を放ったらかしにしてんの? ちゃんと僕にいろいろ注意する時に、上の空になったことなんか無かった。だから鬱陶しかったのに。こんな風にじっと人の顔見てるなんて、そんなこと僕以外にしたこと無かったはずなのに。
先に家に帰って靴をふっ飛ばして、冷凍庫からアイスバーを出してバタン! と閉めた。いつもなら『もっと優しく閉めろ』っていう兄ちゃんは、今はどっかのおばちゃんの顔に見惚れてるんだ。
なんでこんなにイライラするのか分からなくて、アイスを齧りながらなんとなく仏壇を見た。そして仏壇に向かって座り直した。
写真でしか知らないお母さん。さっきのおばちゃんに似てる…… 見てる内に目がじゅわっとしてきて、アイスの味が分からなくなった。少しして手にぽたんと冷たいなんかが垂れてきた。慌てて頬っぺたを拭ったらそこは生温かく濡れていて、手を見たらアイスの解けてたのが垂れている。台所の流しにアイスを置いて水をざぁざぁかけるとアイスは解けて消えてった。ついでに目と頬っぺたを水で擦る。
兄ちゃんは今、お母さんと一緒にいるんだ。僕の知らない、お母さんと。それは兄ちゃんの思い出で、僕のじゃない。今一緒にいるべきなのは僕なのに、もういないお母さんと兄ちゃんは一緒にいる。父さんと変わんないじゃないか。自分にしか見えてない自分だけの仕事を探してる父さんと。
ややこしいことで頭がいっぱいになって、僕は外に飛び出して林の奥に走って行った。
誰もいなくって、林の中はすごく静かだった。鳥とかセミとか。そういう鳴き声はするのに静かなんだ。なんでここに来たんだか忘れちゃってあちこち見ながらいつもより奥に入っていった。うっかり途中でポケットの中のソーダ飴を落としたけど、拾おうとした時にもっと奥の方に何かが見えた。
時間は家から出てだいぶ経ってるような気がする。でもまだ空は明るいし、林の中は結構涼しくて気分がいい。
あとちょっとだけ。ここまで入って来て何も収穫が無いのも癪だし。だから、もうちょっとだけ。どうせ、兄ちゃんはあのおばちゃんの所にまた何か買いに行くんだろう?
そう思ったら、止まりかけてた足がずんずん何か見えた方に進んでいた。
緑色の小屋。 きれいな緑の小屋。しばらくその前で立っていた、だってあんまり綺麗だったから。すぐにそばに行きたくなかったんだ。右に行って、左に行って、もう一回正面から眺めた。小屋の中から大きな木が生えている。たくさんの枝が広がって、小屋に覆いかぶさっていた。
(入れるんだろうか)
そう思った時には、僕の中じゃ入るのは確定事項だった。
(ちょっとだけだよ、兄ちゃん)
『こんな所、一人で入るんじゃない』
その声がちゃんと聞こえたけど、もう入らないなんて出来ない。
兄ちゃんの声がもう一度聞こえた。
『こんな所、一人で入るんじゃない』
(ほんのちょっとだけだよ)
僕はもう一度そう呟いた。そばをぐるりと回ると、一ヶ所入れそうな穴を見つけた。そこから覗くとあんまり屋根が無くって、でも大きな木の枝が屋根の代わりになっていた。
穴に潜り込んだ。まだ外は日が高かったからそんなに怖くなかった。中から空を見上げると、葉っぱが繁ってるのに間から光が落ちてきてほんのり明るい。ほっとした。真っ暗だったら入っちゃいけないだろう、そう思っていたから。
小屋の中は足元の方は暗くってよく分からないけど、何も無い感じだった。いつの間にかゆっくり一歩ずつ歩いていた。上を見ながら。
それは あっ! という間だった。
小屋の中に伸びていた根っこに蹴躓いてそこにあった穴に落ちてしまったんだ。頭の中で無意識に手を地面につこうと準備してた。
でも。
手が 手が 宙に浮いてる……違う、僕は落ち続けてるんだ……
(え!? え…!?)
果てしなく落ちていく中で、もうどこか諦めの気持ちが僕には生まれていた。
(もう帰れない お日様 さようなら 兄ちゃん ごめんなさい……)
そこは真っ暗じゃなかった。どれくらい経って気がついたんだろう。時間の感覚ももう無かった。
しばらくバカみたいに座り込んで、やっと周りをゆっくり時間をかけて見回した。早く首を回したくない。ゆっくりだ。だって、怖い。だからゆっくり動けばまずい事態っていうのを避けられそうな気がした。
でかい木がいくつもいくつもずっと立っていて、上の方は淡い光の中に消えていた。とても登れるようなもんじゃない。太すぎるんだ。僕が5人くらいいてもぐるっと周りを囲めないんじゃないだろうか。
すごく怖い。なんだか、怖い。怖いよ、兄ちゃん……
『怖いって思った時にはな。数を数えるんだ。ゆっくり数えろよ。10まで数えたら20から数えて、30までいったら40から。 いいか? ずるっこして数えるんだ。そのうち落ち着く』
ずっと前小さい頃、暗い道を通る時に教えてくれたこと。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 21 22 23…………
これ、結構難しい。だからちゃんと数えるのに必死になる。それでも思うんだ。
(うふっ やっぱりずるっこだよ、兄ちゃん)
少し落ち着いた。いつもの兄ちゃんの声が聞こえたから。それでやっと気がついた。なんで怖いのか。音が無いんだ…何も聞こえない。 何も聞こえないんだ……
音が無いってこんなに怖いもんなの? 自分の息を吸ったり吐いたりする音さえ空気の中に消えていく。『兄ちゃん』……声を出したいのに、そのせいで何か起きたら? と思うから声が喉に引っかかる。塩の塊みたいなのが喉に引っかかる。涙みたいなのがたっぷり喉に引っかかる。
『男は?』 『泣かない』 『そうだ、男は泣いちゃいけない』
兄ちゃんが頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。何も聞こえないのに、兄ちゃんの声だけが頭の中に聞こえてた。
(助けて 助けて、兄ちゃん……)
もしそんなことを言ったら、頭にゲンコツが落ちてくるだろう。痛くない優しいゲンコツ。でも、兄ちゃんは絶対に助けてくれるんだ。
(だから、助けてよ、兄ちゃん)
それでも声は出なかった。もう一度周りをよく見ると、大きな木の間に小さな道が見えた。
(行ってもいいのかな) (行ってみようかな) (出口があるかな)
そんなことを代わりばんこに考えた。そしたら返事があるような。そんなことに縋っていたんだ。
あんまり長い時間同じ姿勢でいたから、動き始めると背中が痛かった。胸も痛い。やっと立ち上がってまたじっとした。歩いていいかどうか分からない。
横にも後ろにも大きな木。何かがどっかから飛び出してきたらどうしよう。でも虫の声も鳥の声も、ちょっと動かした足元の音も聞こえない。何かが近寄って来てもきっと気づけないまんまだ。
数を数えながらゆっくりと何歩か歩いて止まった。何も変わらなかった。僕がドキドキしてるだけ。もう一回何歩か進んで周りを見て、ホッとしたからさっき見えた小さな道に向かって歩き出した。
その道にちょっと入ると、ずん と体に何かが響いた。僕の足は止まった。
(先に行かない方がいい? 引き返した方がいいの?)
怖いなんてもんじゃない、もう、目も閉じれない。閉じたら何かが出て来そうで。でも振り向いたらさっきの明るかった場所が消えていた。あそこに戻るなんてもうできない。とうとう叫んだ。
「兄ちゃん! 兄ちゃん、助けて!!」
頭がガンガンするけど、自分の声が聞こえなかった、叫んでるはずなのに。どれだけ泣いても誰も助けになんか来てくれない…………
後ろに戻れないから僕は一歩だけ前に進んだ。また感じた、ずん という響き。
「もう動けないよ、兄ちゃん……」
せめて自分の声だけでも聞きたかった。そしたらもっと何かが変わるようなそんな気がして。
周りにある木は、奥の方に向かって数が少なくなってる気がした。それにだんだん木が細くなってる。それはいいことには思えなかった。だから歩くのをやめたけど、じゃ、これからどうしたらいい?
『これから』って、どれくらいの間?
考えるとどんどん怖くなって死んじゃった方がいいような気になっていく。
長いこと立っていて、行くところがどこにも無いんだからもう少し先に行ってみようかなんてまた思い始めてた。
足を宙に浮かしながら一番そばにあるどっしりとした木を見た。『止まれ!』って声がした、その木から。小さいけど心の中にそう聞こえたんだ! 僕はその木に手を伸ばした。
びっくりしたのは、あったかかったから。あったかいんだ、その木が。僕はその木に背中で寄りかかった。不思議だ、ほっとする。
落ち着いてくると背中に小っちゃくて大きい とくり とくり っていう動くものを感じた。
(鼓動だ!)
この大きな木の鼓動だ。なんてきれいな音なんだろう…… 音がこんなにきれいだなんて僕は知らなかったよ。こんな音の無い世界なのに、それは僕には音だったんだ。
――ああ 喉が渇いてたんだ――
そう思ったのは、木をつたってくる水の雫がぽたんと口にかかったからだ。僕は大きな口を開けた。
(美味しい!!)
もっと飲みたくて、大きな口を 大きな口を開けたんだ。
「……太! 健太! 健太―っ!!!」
「……兄ちゃんの声が きこえる……」
「目を開けろ! このバカ…… 死んでるのかと思ったんだぞ!」
(あれ? 男は 泣かないんじゃなかったっけ?)
僕の目がぽかっと開いた。目の前に、ううん、僕の顔の上に兄ちゃんの顔があった。そして、僕の頭は兄ちゃんの膝の上にあって、そこから とくり とくり って聞こえた。
頭を動かそうとして、ガシッと兄ちゃんに押さえつけられた。
「まだだめだ。動くんじゃない。お前、落ちたんだよ、ここの穴に」
「ここ?」
「ああ。こんなとこまで来やがって。ずいぶん探したんだ。お前が飴落としてなかったらきっと見つけられなかった……」
そうだった。兄ちゃんに黙って林の奥に入ったんだ。
「ゲンコツしたいけど、良くなるまで取っとくよ。利子つけてな」
「ぼく すわりたい」
変なの、僕の声じゃないみたいだ。それに胸がまだ痛い。
「もう少し待て。お前、見つけた時に息してなかったんだぞ! 人工呼吸で汗だくだ……疲れたぁ」
「むね いたい」
「そりゃそうさ。あれだけ押したり叩いたりしたんだからな」
「みず くれた?」
「ああ、キスして飲ませてやった。なんでお前なんかにキスしなくっちゃなんないんだよ。喉渇いてたから通りの自販で水買ってきといてホントに良かった!」
暗い道に入りそうな僕を止めたのは、兄ちゃんの木だった。あのあったかい とくり とした木は兄ちゃんだったんだ。あの美味しい水は兄ちゃんがくれたんだ。
やっと座らせてもらって横の穴を見たら、そんなに深い穴じゃなかった。
「もうだまって どこかにいかないよ 兄ちゃんの言うこと、きくよ」
「ああ、そうしてろ。な? もう兄ちゃんの前から勝手に消えるんじゃない」
兄ちゃん、それ、誰に言ってるの? 僕? 死んじゃったお母さん? うん。分かった。僕は勝手になんか消えないよ。僕はずっと兄ちゃんのそばにいるんだ。ずぅっと。
帰りは兄ちゃんの背中の上で、僕はすっかり眠ってしまって、とくり とくり っていう兄ちゃんの音を夢の中で聞いていた。
学校には一度も行かなかった。夏休みが終わる前にまた引っ越したから。車に乗った兄ちゃんは黙ってのり塩のポテチを食べていた。
―― 完 ――
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